FLOOR L-57


Plimoth Plantation
(1627 English Village)

集会所の二階は集会場、というよりは見張り台のようになっており、のぞき穴等も
必要に応じて閉じたり出来るようになっていた。Native達、あるいは別の脅威との
戦闘を想定していたのであろうか。この大砲、Mayflower号からおろしてきたのだろうか。
そういえばああいう船、到着してしまった後はやっぱりイギリスに戻るのだろうな・・・。

その二階の窓から見る風景。ガラス窓は、なし。この向こうに陸地が何千キロも続いている。

何気なく置いてあった椅子。三角形の構造が面白い。三本足なら
どこに置いてもがたがたしないだろう。丸い支柱は旋盤で削ったのだろうか。

で、民家。柱を立て、周りに板を張っていく、一般的な手法。
屋根は全て藁葺き。煉瓦はこの集落では見かけなかったから、作れなかったのか。
煉瓦ってやはり重いので、家の構造体をしっかり作る自信がないと怖くて乗せられない、とか。
この家の面積は、大体50平米くらいか。

他にも似たような家が。当時どのような家を造っていたかの資料は1627年が最も多い、と
聞いた。逆に言うとそれ以外の年はあまり/ほとんど資料がなかったということで、
似たような家が出来るのは致し方ないか。ガラスがなかったため?窓はなし。
格子状の窓はあった。恐らくは布や板を被せて風を防いだのだろう。

で、ここの家々には住民がおり、当時の英語で、当時の生活者になりきって
話をしてくれる。「私が13才の時にここに移ってきて・・・」等と
しゃべってくれ、彼らと話をすることで当時の生活を偲ぶことが出来る。が、
けっこう人がいたりしてあまり話は出来ず。時間があればゆっくり
話をしたかったのだが。

ベッドは地べたの上50センチくらいの所に出来ていた。冬は猛烈に
冷え込んだと思われる(何せ最低気温-20度以下の日もある)。厳しい寒さで
体調を崩し、亡くなった人もいたことだろう。この集落のことかどうか分からないが、
Nativeの人に「人が減った」と悟らせないよう、墓も作らないことがあったと聞く。

藁葺きをしている人。藁の並べ方などは、日本の家とあまり変わらない、ような気がする。
もっとも詳しく調べたわけではないが。藁がたくさんある、ということは当時から麦は
たくさん栽培していた、ということと推察される。

次へ

KPL Blog アメリカのかたちに戻る

KPL Blog2 Thoughts; sinking bubblesに戻る


Kodama Propulsion Laboratoryホームに戻る

Copyright 1996-2013 Ryo kodama
Updated at Sun, Nov 25, 2007