FLOOR J-02


千浩観測室(出産-2ヶ月)

出産
陣痛が始まったのは午前2時頃。陣痛は少しずつ強くなるがその日の
午後10時を過ぎても強い「いきみ」はない。胎児の心拍は130くらい。
いきみで子宮が収縮すると一瞬90-100程度に心拍が落ちるが、すぐに
元に戻る。母体の中で生きようとしている小さな命。なんだか一生懸命に
生きようとする感じが伝わってくる。陣痛が始まって24時間にもなろうという頃、
小さな頭が段々見えてくる。頭部が露出した時陣痛が最大に。その先は一気に胎児が
飛び出してくる。まさに「すぽん」といった感じで。

胎児は血と羊水にまみれてかぴかぴ、べたべたしていた。へその緒は
私自身で切った。まるでこたつの電源コードのように数本のチューブが
ら旋状に巻き付いている、ツヤっぽく白いコード。医者のはさみを
借りて切ろうとするが、とても硬い。何度も力を入れてざくざくと
切った。こんな丈夫なコードで母体とつながっていたんだ、と実感。
「小玉家にようこそ」と言いながら切った。


せまく辛いはずの産道の中ですら力強く生きていたと思われる胎児は、
しかし一見とても弱々しく見えた。呼吸もせず医者が抱き上げたタオルの上で
ゆっくりと力なく動いている。呼吸はしないのだろうか?スポイトで咽の羊水を
取り除くと、ようやく「メエエ...」と小さく泣き出した。すぐに母親の所へ持って
いき、初乳を飲ませようとする。しかし飲まない。乳首が分からないのだろうか。
「飲め、飲め」と心の中で思っているなか、やっとぺろぺろと舐め始める。
本能がちゃんと動き出しているんだ。なんとなく安堵。初めて抱く
胎児は羊水ですっかりふやけきっていて、そういう匂いがした。

風呂に入れる。

うっとりしている。しかし、宇宙人みたいだ。

1週間もしたら退院。退院の時に名前を「千浩」と決定。様々なことに豊かで
ある、という意味。もちろん画数にもある程度はこだわった。別にどうでもいい
事かも知れないが、何となく気になり。祖母が帰ってからは我々夫婦の
3人暮らしが始まった。風呂に入れるのは旦那の仕事。生まれたばかりの千浩は
やせっぽち。まるでつかまった金星人である。首のところを支えて湯に浮かべ
ると、気持ち良くてたまらないと言った恍惚とした表情でリラックスしている。
多分子宮にいたころもこうしてリラックスしていたのだろう。考えてもみれば、
子宮から出てくるということは魚がいきなり丘で暮らすようなもので、人間の
全生涯を通してもこれ以上の大変化はないんじゃないかと思えてくる。これに
比べればお受験や仕事などどうだっていいような些細なことに思えてきた。
そんな大きな環境変化を我々全員が当たり前のように体験してきたのだ。
もうすっかり忘れてしまっているけど。

なんとなく目が宙を泳ぐ。
生まれたばかりの嬰児は目が見えない、というか、ぼんやりとしか見えてない
らしい。それでも抱いてやるとじっとこっちを見てくれる。が、こっちの目を
見ているわけではない。目があちこち泳いでいる。感覚的にはこっちの肩口か
頭の上の方を見ている。こっちの頭の輪郭線を見ているのだろうと思ったが、
そうでもない。何もないはずの天井を見たり、天井の一点から一点へと目が
動いている。何を見ているのか?肩の上に死んだ婆さんでもいるのだろうか?と
あらぬ心配をしてしまう。千浩の脳に入り込んで、千浩が何をどうとらえているか、
見てみたくなった。たとえば精神に障害を持つ人は人が物に見えたりするというが、
本当か。千浩がこの世界で両親や、布団や、乳房や、その他いろいろのものをどう
見ているか、体験してみたい。

自分の手をじっと見る。
胎内では手足をバタバタしていて、生まれたときにはある程度の動きが出来るものだと
思っていた。が、意外に千浩は動けないものだった。人間が感覚を統合して自分の思う
ように行動するには、いろいろな試行錯誤が必要なのだろうか。などと思っていたら、
最近千浩が自分の手を見ていることに気がつく。手に何かが触れると感覚が伝わる。
そして自分の意志に対応して動くこれは自分の一部なのだろうか。そんなことを考えて
いるようにも見える。きっと千浩は気がついたのだ。自分と外界を結ぶ、もっとも重要な
インターフェースの存在に。自分の意志で動かすことの出来る、手の存在に。
うまく使うんだぞ、と心の中で思った。

3-4ヶ月目まで


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Updated at Jan. 30,2000